河村 玲央[i](環境省自然環境局生物多様性主流化室長)
2021年1月
脱炭素社会を目指す官民の動きが、ようやく日本でも活発になりつつある。
2020年10月26日、第203回国会(臨時会)の所信表明演説で、菅総理は「我が国は、2050年までに、温室効果ガスの排出を全体としてゼロにする、すなわち2050年カーボンニュートラル、脱炭素社会の実現を目指すことを、ここに宣言いたします。」と述べた[ii]。欧州と中国が長期的なカーボンニュートラルの目標を既に発表し、米国で政権交代が起これば同じくカーボンニュートラルを宣言すると見込まれていた中で、米中と日本を含む主要排出国が、いずれも脱炭素社会を目指すことを宣言したことになる。
菅総理の宣言以降、企業がカーボンニュートラルを目指す宣言[iii]、革新的な温室効果ガス排出削減技術の実装に乗り出す旨の発表[iv]、特定の部門で排出削減を目指す施策の検討[v]など、脱炭素社会を実現するための官民の動きが連日報じられるようになった。
こうした中、2020年12月21日、菅総理は梶山経済産業大臣と小泉環境大臣に対し、カーボンプライシングについて、両省で連携しながら議論するよう指示した[vi]。これを受けて小泉環境大臣は、2021年1月8日、環境省内に「カーボンプライシング制度検討チーム」を発足させた[vii]。2月1日には、中央環境審議会のカーボンプライシングの活用に関する小委員会が開催される予定である[viii]。
現行の政府の地球温暖化対策計画[ix]では、カーボンプライシングの位置づけは高くはない。税制については、地球温暖化対策税収の活用に加えて「総合的・体系的に調査・分析を行う」とされ、国内排出量取引制度については「慎重に検討を行う」とされている。これに基づいて、環境省で検討が行われていたが、政府としての本格的な議論の動きが見られたのは、ごく最近のことである。
このような状況で、日本におけるカーボンプライシング研究をまとめた本書は、海外からも注目されているようである。本書がオープンソースとして公表されたのは2020年9月17日、菅総理の宣言の約1か月前であった。2021年1月中旬までの約4か月間で、ダウンロード数は11,000回を超えている[x]。
今後、本書が示した科学的知見が有効に活用されることを期待したい。
なお、筆者は、2008年から2011年まで国内排出量取引制度の検討を担当した。また、2013年から2015年まで税制のグリーン化を担当し、本書の基となった環境研究総合推進費のプロジェクト[xi]にも関わった。しかし、それ以降はカーボンプライシングの担当を離れており、環境省の検討チームにも参加していない。本書の評価も含め、本稿は筆者の私見に留まることを、予めお断りしたい。
まず第1章では、カーボンプライシングの世界的な情勢と日本の位置づけを整理している。世界銀行(2019)[xii]とOECD(2016)[xiii]から、日本の炭素税(地球温暖化対策税)の税率は、炭素税を導入している国と地域の中では最低水準であることと、他の化石燃料関連税制も考慮に入れた実効炭素税率では、運輸部門のみがOECD諸国の平均水準にあることを再確認している。
第2章では、業務その他部門の排出削減対策を評価している。排出削減に資する省エネ対策を、排出量取引制度を導入している東京都と、東京以外の5つの主要都市と、それ以外の地域に分けて調査した。その結果、東京都では比較的費用が掛かる省エネ対策(照明の省エネ化、壁・窓の断熱改修など)の実施割合が高い一方、費用が掛からない対策(照明の間引き、窓の日除け・ブラインド、冷暖房の温度設定など)は、実施割合の地域差があまりないことが示された。
第3章では、家庭部門の排出削減対策を評価している。最も効果があるのは耐久消費財のエネルギー消費に関するトップランナー制度であるが、その効果はストックとサイズの増加によって相殺されており、技術イノベーションだけで家庭部門の排出を減らすのは困難としている。また、住宅の省エネ補助制度やFITによる再エネ導入策については、ZEH補助金が住宅新築費用の4%未満であること等から、資金的により余裕のある人が一層の対策を行う逆進的な構造になっており、実施率も低い水準に留まると指摘している。
第4章では、交通部門の排出削減対策を評価している。本章で興味深いのは、日本の乗用車(約6200万台)をすべて電気自動車(EV)に切り替えた場合の効果試算である。それによると、日本の乗用車の実走行距離を走るのに必要なエネルギーをすべて電力で賄うとし、それがすべて火力発電所(現在の石炭、石油、LNGの構成比率に従う。)に由来するとしても、乗用車由来のCO2排出量は約6分の1に減る。ただし、給油が1分で済むのに高速充電でも30分かかるため、機会費用損失が発生し、これがCO2排出減による利益を大幅に上回る。このため、日本の乗用車をすべてEVに切り替えると、社会的にはマイナスになる。ところが、EVはガソリン車と異なり、家庭で充電することができる。この場合、機会費用損失は発生しない。そこで、2回に1回以上、充電を家庭で行うようにすると、社会的便益がプラスに転じることが示された。
第5章では、エネルギー転換部門の排出削減対策を評価している。火力発電については、効率改善でCO2排出量の削減を実現する場合、CO2排出量の減少につながる改善レベルを正確に見積もり、それを反映した適切な規制基準を設定し、実行する必要があるとしている。これ自体が難しいことに加え、発電効率が改善に向かうと、炭素税導入への政治的ハードルが上がることも指摘している。また、FITと炭素税の組み合わせについても分析し、炭素税収をFIT賦課金の軽減に充てることが社会的厚生にプラスになる可能性を示している。
第6章では、東京都の「総量削減義務と排出量取引制度」(以下「東京ETS」と略す。)について、その対象となっている大学関連ビルの第一計画期間(2010年度~2014年度)におけるCO2排出削減効果を、差分の差分法により分析している。その結果、第一計画期間において、東京ETSは、2009年比で平均3~5%のCO2排出削減効果があったことが示された。この期間は、2011年の東日本大震災における計画停電や節電要請の時期を含んでおり、これらの措置も、2009年比で平均5~7%のCO2排出削減効果があったことが示された。
第7章では、埼玉県の「目標設定型排出量取引制度」(以下「埼玉ETS」と略す。)のCO2排出削減効果を、カーボンプライシングを伴わない「温室効果ガス排出削減計画等提出・公表制度」を施行している群馬県と比較しつつ、分析している。2010年度から2014年度までについて感度分析を行うと、2012年度から2014年度において埼玉ETSの対象事業所が大幅に排出を削減したことが示された。また、埼玉県の地球温暖化対策計画の対象事業所であって、埼玉ETSの対象ではない事業所においても、排出削減が促されたことが示唆された。
第8章では、エネルギー消費統計調査のデータを用いて、東京ETSと埼玉ETSの対象事業所のうち、製造業における排出削減効果を分析している。2004年から2016年までのデータを差分の差分法を用いて分析したところ、東京ETSは、製造業の事業所の電力消費量の16%削減に寄与した一方、埼玉ETSの製造業の事業所では有意な変化は見られなかったことが示された。また、この間、東京ETSでも埼玉ETSでも、製造業においては、よりクリーンな化石燃料の切り替えや再生可能エネルギーへのシフトは、統計的に有意なレベルでは観察できなかったことも示された。
第9章以降は、カーボンプライシングに関する経済モデル分析が続く。第9章では、次世代エネルギーを考慮した産業連関分析を用いて、上流課税又は下流課税により、経済の各部門にどのように排出削減効果が表れるかを分析している。第10章では、CCEモデルを用いて、現行の日本の長期目標である「2050年温室効果ガス排出80%削減」を前提に、日本の各部門・各地域への経済の負の影響を分析するとともに、国境調整措置による影響軽減策の効果を示している。第11章では、産業連関分析を用いて、OECD(2016)が提言する実効炭素税率30ユーロ/t-CO2の炭素税が、各部門に与える影響について分析している。第12章では、家計調査を基に、エネルギー関連税制が家計に与える影響が地域ごと、年齢階層ごとに異なることを示している。第13章では、動学的CGEモデルを用いて、現行の日本の長期目標の下、炭素税を中心とする税制改革又は社会保障改革によって生じる「二重の配当」の規模と部門をシミュレーションしている。
こうした本書の内容について、政策担当者の一人として所感を述べたい。
とりわけ筆者が注目したのは、第2章から第8章までの温暖化対策及び東京ETS・埼玉ETSの実証分析である。
政策担当者が恐れるのは、学術的、理論的に有効とされる施策が、効果を生じないことである。また、効果が表れても、それは別の要因によるものと一見して区別がつかないこともある。しかし、政策効果を測るために実態調査と統計分析を緻密に設計し、実施することは容易ではなく、結果が明らかになるまでには時間もかかる。そのため、とりわけ環境政策の分野において、このような緻密な効果分析は、筆者の知る限り、あまり行われてこなかった。
そうした観点から、第6章、第7章、第8章において、排出量取引制度のほかに排出削減をもたらし得る様々な要因を考慮に入れたうえで、同制度に有意な効果があるかどうかを統計的に明らかにしたのは、同制度の日本における有効性を議論する上で、大変有意義な成果だと思われる。
第2章から第5章にかけて、製造業を除く各部門における排出削減対策を分析していることも見逃せない。これらの部門にカーボンプライシングを導入するか否かにかかわらず、それぞれの部門における有効な排出削減対策を考えるうえで、ヒントとなりうる知見が整理されているからである。
その一方、第9章以降の経済モデル分析には、筆者は目新しさを感じなかった。
既に編著者を中心に、様々な研究チームが、国内排出量取引制度について、類似のモデル分析を数多く世に出していること[xiv]も理由の一つかもしれない。本書が公表されたのが菅総理の宣言の1か月前であるから、カーボンニュートラルを前提にした分析とはなっていないこともやむを得ない。
ただ、欧州のグリーン・ニューディールや、菅総理の宣言では、温室効果ガスの大幅削減を積極的に行うことが、経済成長の制約ではなく、産業構造や経済社会の変革をもたらし、大きな成長につながるものであるとの認識が共有されている。こうした認識は、どのような経済学的知見によって裏打ちできるのか。これが本書で明らかにされたとは言えない。今後の研究の進展に期待したい。
とはいえ、本書は、日本のカーボンプライシング研究の集大成と言えよう。研究者や政策担当者を含め、関係者に幅広く共有されることを期待したい。